ハイハイする赤ちゃん

子どもの頃から、人間は何のために「学び続ける」のかを問い続けてきました。
「大学入試や就職試験のため」などでは終わらない
「学び続ける」ことの意味です。

仏教の修行になぞらえて考えてみましたが、
結局のところ「学び続ける」ことは、それぞれの人間が
「いかに生きるか」ということを問い続けることに他ならないと感じます。
「学び続ける」のは「より良き人生を送るため」だと考えてみます。

自分の人生が良きものであったのかは、
最終的には人生が終わりを告げる時で無ければわかりません。
中には臨終の際に自分の人生に対する見方が
180度変わる方もいるでしょう。

その意味では、阿弥陀如来を信じて念仏を唱え続ければ
「来世」極楽浄土に生まれ変わることができるとする親鸞の教えに
通じるものがあります。
学びや修行の成果は「現世」ではわからないからです。
人生の最後まで学び、修行を続けざるを得ません。

より良い人生を送るための模索は、命ある限り続きます。
その意味では「悟りのためには修行し続けなければならない」とする
道元の教えに通じるものがあります。

仏教の「悟り」が「いかに生きるべきか」という問いに対する解答であり、
それを求めるのが「修行」だとすれば、
「学び続ける」ことの意味を「いかに生きるべきか」を問うことだ
と定義すれば、同じような様相を帯びることは
当然と言えば当然かも知れませんね。

仏教における修行の在り方を参考に考えてきましたが、
最後は私の師の教えに帰ってきたようです。

私の師である林竹二先生は
「人間だけが自分で自分の生き方を決めることができる。
だから正しく生きるために人間は学び続けなければならないのです」
と言われました。

大学時代に師の思想に出会った時、
子どもの頃から問い続けてきた私の疑問が氷解しました。
人間は動物と違って、自分の生き方を自分で決める自由を手にしました。
しかしそれ故、正しく生きるために学び続けねばならないという宿命を
負わされたと言っても良いでしょう。(続く)

 

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