祈りを捧げる少女

鎌倉時代、「念仏」を唱えれば
極楽浄土に生まれ変わることができるとしたのは
法然・親鸞・一遍です(*1)が、今回は親鸞(しんらん)に注目します。

親鸞の師である法然は「ただひたすら念仏を唱える(*2)だけで
極楽浄土に行ける」としました。
厳しい修行や経典研究などしなくても
「南無阿弥陀仏」という「念仏」を唱えるだけで救われるという教えです。
修行も経典研究もできない庶民にとっては救いの教えだったでしょう。

その教えをさらに深めたのが親鸞ですが「悪人正機説」という言葉で
有名ですが、言わんとしていることは、
「悪人=悪い人ほど救われる」ということではなく、
「自分は罪深い悪人だという自覚のある人ほど阿弥陀如来という
仏様にすがる気持ちが強い → つまり信仰心が強い
→ 大切なのは信仰心である」ということです。

親鸞は、単に念仏を唱えるだけでなく、
「信仰心」を持つことが必要だとしたのです。
この教えは「修行などの実践を軽視」する風潮への対抗思想と言えます。

まず、何かの実践の「結果」が現世においては確認できません。
なぜなら「極楽浄土にいける」のは「来世」だからです。
さらに法然の教えに加えて「信仰心」の必要性が謳われていますが、
自分の「信仰心」が「十分である」ということも確認しようがありません。
結局、一生の間、ひたすら、念仏を唱え「続ける」ということになるのです。

うまい仕掛けだと言えるでしょう。

現代においても、何かのために「努力」をしても、
その「成果」が確認できれば努力をやめることは良くあります。
試験対策勉強などはその典型で、
試験が終われば勉強を終了するのは一般的です。
しかし、もし試験日が明示されず、目標が点数では無く
「順位」(1番になるなど)だったらどうなるでしょう。
他の人も勉強しているから、どこまでやれば十分か分かりません。
結果、ひたすら勉強し続けるしか無くなるのです。
学習者にとっては大変なことですが、
実践性回復の上ではしたたかな思想と言えるでしょう。(続く)

(*1)
阿弥陀如来という仏様のいる極楽浄土に生まれ変わり(極楽往生)、
成仏(=仏になる)するという教えを浄土教といいます。
極楽往生は「悟りを開く」と同様、当時の人々の切実な願いでした。
鎌倉新仏教のうち、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、
一遍の時宗(じしゅう)は浄土教に基づいた新宗派です。

(*2)
これを「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」と言います。

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