聞きたくない

頑張れ、という言葉があります。
人によって色々な捉え方のある、この言葉。

かくいう、私は好きでも嫌いでもありません。
この言葉をもらったからといって、
「よしやるぞ!」ともならないし、
「ここまで頑張ってこなかったと言いたいのか!」
と憤る気持ちになることもありません。

ここで、ある海外の方の言葉を紹介してみます。

「日本人は、頑張れって言葉が好きだよね。」
「でも日本人って、そんな言葉がなくても、
充分にみんなが頑張って働いてるよね。」
「だから、あまりその言葉、
日本人同士で言い合わない方が良いんじゃない??」

敢えて、国名は出しません。
ただ、その彼が言うには、
自分の国の人は日本人ほど働かないそうです。

ここで、「頑張る」という言葉を紐解いてみます。

意味、
「困難にめげないで我慢してやり抜くこと」
「自分の考えや意志をどこまでも通そうとすること」
とあります。

確かに、一般的な日本人は常に「頑張っている」ような気もします。

そんな人に、何かちょっと滅入っているときに
「頑張れ」と言ったとして。
言われた方は何を感じるのでしょう。

想像してみるに、極端に憤る人もいるかもしれませんが。
だいたいは、私と同じように「よしやるぞ!」ともならないし、
「ここまで頑張ってこなかったと言いたいのか!」
と憤る気持ちにならない、というような、
何事もない状態になるのではないかと感じました。

いずれの場合にせよ、その言葉自体が、
何かしらの化学反応を起こすことはないのでは。
そんな風に思いました。

これ、お子さんに置き換えてみるとどうですか??

何かができない。
何かがわからない。
どうして良いかわからない。

そんな思いが子どもの中にあるとき。
「頑張ってみなよ」という言葉が、
果たして助けになるのでしょうか。

もちろん、なるときもあるとは思います。
その言葉から親の愛情を感じて、
子どもに活力を与えることは、
十分にあり得ることだとは感じます。

でも。
「思考停止」で、何も言う言葉がないとき。
「とりあえず、頑張ってみようよ。」
と言葉を放っていることもあるかもしれません。

思考停止の状態から生まれるものは、
とても少ないと思っています。

もし、子どもが滅入っているときに
何も言う言葉を思いつかないとき。
そこまで頑張ってきたことを、
まずは「認めてあげる」ということをしてみてはいかがでしょう。

例えば、解いている問題がわからなくて滅入っているとき:

「もっと頑張って考えてみよう」ではなく、
「そうか、一生懸命に考えたんだね。頑張ったんだね。」
と言ってやる。

その後は、「ちょっとだけ頭を休めてみる?」と言ってみたり。
「教科書をもう一回、一緒にみてみようか。」と言ってみたり。
一度、そこまで「頑張ったこと」を認めてあげることで、
親としても次の道が見えたりします。

例えば、友だちから不本意な言葉を言われてしょげているとき:

「頑張って仲良くしようよ」ではなく、
「そっか、そんなことを言われても泣かずにいられたんだね。
頑張ったんだね。」と言ってやる。

その後は、「どうしてそんな風に言われたのか
一緒に考えてみようか。」と言ってみたり。
「どうしたら、強い言葉にめげずに済むかを考えてみようか。」
と言ってみたり。
「一緒にボール遊びして忘れちゃおうか!
難しいことは、気晴らししてから考えよう!」と誘ってみたり。

一度「頑張ったこと」を認めてあげることで、
新しい道筋が見えたりします。

「頑張れ」という言葉に色々な想いが交錯するのは。
それが「思考停止の代名詞として言葉」であるからかもしれません。

とりあえず、言ってみる。
過去にそう言った経験があるから、言ってみる。
みんながそう言っているから、言ってみる。

脳を回転させずに言う言葉は、とても空虚になる場合が多いです。

今日は、敢えて「頑張れ」という言葉にフォーカスしてみました。

言葉とは、それそのものが「目的」ではなく。
伝いたい何かを伝えるための「手段」でしかありません。

子どもに伝える言葉、目的を果たすための
意味をもった手段になっているか。
時に考えてみる機会も必要だと感じます。

今日も、素敵な1日を!

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