電話をかける少年

石原千秋氏は
「現在の国語という教科の目的は、
広い意味での道徳教育なのである(*1)」
としましたが、確かに、数ある読書体験の中で、
国語の教科書の文章から身につけた
道徳の徳目は多かったように思います。

小学校1年生の時の『小さい白いにわとり』(*2)を読んで、
「決して卑怯な振る舞いはしない」と誓ったし、
『赤いスポーツカー』(*3)では
「縁の下の力持ち的な存在をバカにしてはいけない」ことを学び、
4年生の『ゼッケン67』(*4)では「勝敗に関わらず、
勝負は最後まで全力で戦い抜くことが大切だ」
と感じました。

ところが当時から持っていた疑問は、
道徳を教えるべき教師が
あまり道徳的で無かったということ。
さらに言えば、教師が教科書の道徳的内容に
あまり関心が無いかのよう見えたことです。

勿論、大人になれば、
「教師だって人間だ「聖人君子」にはなれない」
という理屈はわかります。

ただ、当時の感覚はもっと素朴です。
算数を教える教師は算数ができる、
体育を教える教師は体育の技術に優れている。
それと同じように道徳を教えているのだから、
当然「先生は道徳が得意なはず」という思いです(笑)。

当時は体罰など日常茶飯事でした。
独善的で児童の主張もよく聞かないので、
事実誤認もよくありました。

また、授業参観日の先生の変わりようには驚きました。
いつもと服装が違うし、普段は呼び捨てなのに、
その日だけ児童に「くん、さん」がつきます。

勉強のできない児童は置いてきぼりになりがちなのに、
親御さんの目もありますから、
この日ばかりはみんなに発言させたりしました。

結局、発言に慣れていない児童がまごまごして
授業が思い通り進まず、いつも発言する生徒に
めくばせするという授業展開。
小学生ながらに
「何か、嘘くさいなあ・・・。」
と感じていました。

小学生時代、教科書に描かれる「道徳」と
先生の「非道徳」のギャップを目の当たりにし、
「道徳」って一体何だろう・・・と
それこそ素朴に疑問に思っていたものです。

(*1)
石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書(2005年)

(*2)
「小さい白いにわとりがこの麦、誰が蒔きますか?」
から始まり、豚・猫・犬はずっと「いやだ」と言い続けるので、
にわとりは一人で麦を蒔き、苅り、粉に挽き、パンを焼きます。
最後に「このパン誰が食べますか」という問いに
豚・猫・犬が「食べる」と言う物語。

(*3)
速度の遅いダンプカーやレッカー車に文句を言って
追い越したスポーツカーがガス欠を起こして
レッカー車のお世話になるという話。

(*4)
1964年の東京オリンピックの際、
セイロン(現スリランカ)代表のカルナナンダ選手が
1万㍍競争で、3週遅れで完走。
最初は冷ややかだった観衆が最後は
優勝をも上回る拍手で迎える。
「国には、小さなむすめがひとりいる。
そのむすめが大きくなったら、
おとうさんは、東京オリンピック大会で、
負けても最後までがんばって走ったと、教えてやるんだ」
という彼の言葉の結びには今でも感動を覚える。

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