川辺にたたずむ兄弟

道元は日常の全てが修行だとしますが、
中でも坐禅を最高の修行として、ただひたすら坐禅することを説きます。(*1)
そして、修行の結果として悟り(証)に達するのでは無く、
修行(坐禅)そのものが悟りであると考えたのです。(※2)

どういうことでしょうか?

仏の悟りは人々に備わっているが、それに気付かないでいるだけだ。
気付くためには坐禅という修行が必要である。
ただし、修行が一定レベルに達すれば悟りを獲得できるのでは無く、
修行している状態において、仏の悟りを「体得」できるのだ。
だから修行は「永遠に継続」しなければならないという考えです。

確かに、「修行に終わりは無い」と言えば、
「何かのために修行する」
「悟ったから修行をやめる」
という考えを否定できます。
これも親鸞と同様に、実践性を回復するためにはうまい考え方だと思います。

個人的にはこの
「修行に終わりは無い、修行している時が悟りだ」
という考えが好きなのですが、ただ、
「修行している最中こそ悟りを体得できる」
とは一体どのような状態なのでしょうか。
また、このことを一般の人の勉強に結びつけるとすれば、
どのように考えれば良いのでしょうか。

道元について考えていた時、生物学者である福岡伸一氏の
「動的平衡」という言葉が目に留まりました。

「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、
食物として摂取した分子と置き換えられている。
身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、
更新され続けているのである。(中略)
そこにあるのは、流れそのものでしかない。
その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、
かろうじて一定の状態を保っている。
その流れ自体が「生きている」ということなのである。」(*3)

なるほど。
私は膝を打ちました!
道元がどのように解釈したのかはさておき、
修行や学びをこのように考えれば、
それを永遠に「続ける意義」が見えてくるのではないかと思ったのです。
(続く)

(*1)
ただひたすら坐禅することを「只管打坐=しかんたざ」と言います。

(*2)
この考え方を「修証一如=しゅうしょういちにょ」と言います。

(*3)
福岡伸一『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎(2009年)

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