黒板の前で思案を巡らす女の子

お釈迦様の時代の仏教は、
一部の出家修行者が厳しい修行を経た後に悟りを開くというものでした。
その後、大乗仏教の登場により、
より多くの人に悟りの可能性が生まれました。

仏教が日本に入ってきた後
「悟りを開くための能力には天性の差がある」とされていましたが
「誰でも同じように悟ることができる」という考えが主流になります。

そして、あくまで、悟りを開く「可能性がある」とされたものが、
「既に悟りの中にある」と変化していったのです。

その結果「誰でも悟りの中にあるなら修行など必要無いではないか」
と考えられるようになりました。
これが前回見てきた仏教の展開でしたが、考え方が変わることで、
本当に必然的に修行が軽視されていったと言えますね。

この仏教の展開を日本における「大学での勉強」に置き換えて考えてみます。

戦前は大学に入ることができるのは限られたエリートでした。
経済的、能力的に恵まれた人だけが大学で学び、
高等教育の恩恵を受けたと言って良いでしょう。

ところが戦後になり、大学がより多くの人に開放されます。
大学進学率を見ると、1955年で8%弱だったものが1970年で17%を越え、
2009年には50%を越えました。
そして入学希望者が大学入学定員を下回る「大学全入時代」を迎えました。
経済的な条件は必要ですが、誰でも大学に入れる時代になったのです。

「努力すれば」大学に入れる可能性が高まり、さらに
「勉強上の努力をしなくても」大学に入れるようになったのです。
そうなれば、高校生が「勉強など必要ないではないか」と考えても
おかしく無いでしょう。
平安時代末期に「修行」が軽視されたのと同じように
「勉強」が軽視されるようになったのです。

それでは現代における「勉強軽視の状況」への対応策を考えるために、
鎌倉新仏教の開祖たちは、
どのようにして「修行軽視の状況」へ対応していったのかを見てみましょう。

そこに現代の問題を考える上でのヒントがあるかも知れません。
(続く)

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