授業中の風景

予備校講師といえばマスコミなどでも注目される
「カリスマ講師」が耳目を集めます。
しかし、ありようによっては
(予備校経営的には旨みがあっても)教育的には課題が残る場合があります。

それは
「私はこの科目のことについては何でも知っている、
私の言うことをしっかり聞けば合格間違い無し!」
などと触れ込む場合です。

「大学入試に『絶対』は無いのでは?」
という観点でツッコミを入れることもできますが、
問題にしたいのは
「私は何でも知っているかのように振る舞うこと」です。

人間の欲望の対象は「他者の欲望」であり、
学校とは教師の「知への欲望」に対して
生徒が「欲望」を抱くことで
教育的効果を発生させる場所です。

教師が「何でも知っている」つまり
「もう学ぶことは無い」かのように振る舞えば、
そこに「知に対する欲望」が感じられず
「知に対する欲望への欲望」が生じ得ないのです。

それでも、どうして生徒はカリスマ講師のもとに集まるのでしょうか。

「他者の欲望」の原理で考えると、
「カリスマ講師と言われる人の授業を受けてみたいという他の生徒の欲望」
に、欲望を抱いている可能性があります。

勿論、カリスマ講師の講義により、生徒が「勉強の面白さ」に気付き、
生徒の学力が向上し、志望大学に合格することは少なく無いでしょう。

そうなれば短期的(あるいは予備校経営的)には成功かも知れません。

しかし生徒が大学に行った後の長期的・教育的効果を考えるとやはり
「知に対する欲望の欲望」を惹起した方が良いと思います。

だから、予備校講師は「大学での勉強も面白いぞ~私ももっと勉強した~い」
という「知への欲望」を見せつけ、「知の欲望」を披瀝する大学の教員に
「バトンリレー」する方が重要だと感じています。

生徒に対して伝えるべきことは「講師自身の凄さ」などでは無く、
「先人によって構築された学問体系全体の素晴らしさ」であり、
それが「欲望」する価値のある物だということでは無いでしょうか。

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