疑問を抱く男の子

昨今、「想定外」という言葉が氾濫していますが、
そもそも人間が全ての事象を「想定」できるという
前提そのものが間違っていないでしょうか。
例えば、教育の例で考えてみましょう。

教育という行為は、一面、先人が積み上げてきた
学問・芸術・文化・伝統・規範・価値観など過去の遺産全般を、
後人に伝える行為です。
そのことにより歴史は続いてきました。
だから、親や教師はしっかりと先人の蓄積を伝えねばなりません。

しかしその一方で、過去の遺産に対して疑問を持ち、批判をし、
それを乗り越え、新しい発見・発明した人が
歴史を更新してきたという面もあります。
過去を乗り越えるような新しい発見・発明は先人にとっては
「想定」できない代物です。

よって、親や教師は過去の遺産を
しっかり伝える強い意志を持つともに、
想定を越えた新しい現象に対し、
「もしかしたら新しい発見・発明では・・・」
と価値判断を保留する謙虚さや寛容さも必要なのです。
それが無ければ、新しい発見・発明は潰されてしまいます。

別の見方をすれば、教育する側が想定される結果のみを
期待するような思考硬直に陥ったならば、
社会は良くて単純再生産、下手をすると縮小再生産を
余儀なくされます。
人類を取り巻く環境は変化しますから、人類が生き延びるためには、
変化に合わせて進化せねばなりませんが、
単純・縮小再生産では対応できなくなるでしょう。
例えば環境問題が深刻化しているのに、
旧来の技術に拘泥(編集部註:(こうでい)こだわること)
するなどは思考硬直の事例です。

親や教師など教育に携わる者は、後人に対し、
過去の遺産を伝える努力をするとともに、
新しい発明・発見にも寛容でなければなりません。
迎合にならず、かといって新しい流れを阻害しないように
するためにはさじ加減が難しく、厳しい葛藤があります。

ある意味、教育するという強い意志を持ちつつも、
自分はいつか乗り越えられるという存在であり、
後人の肥やしになるのだという自覚と覚悟が必要なのでしょうね。
(続く)

 

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